1. 第一章 霧の中の春
三月の終わり、桜がまだ蕾のうちに、榊原颯は病院のベッドで目を覚ました。
白い天井。消毒液の匂い。窓の外には灰色の空。そして——何かが、足りなかった。
「気がついたか」
父の声が遠くから聞こえた。颯は目を細め、蛍光灯の光に慣れようとしながら、ゆっくりと自分の手を見た。右手の甲に点滴の針が刺さっていた。
「事故だ」と父は言った。「三日間、意識がなかった」
交通事故。信号無視のトラックに跳ね飛ばされたのだと、あとで知った。放課後の帰り道、自転車に乗っていた颯は気づかなかったという。気づいたときにはもう、空が回っていた。
記憶はそこで途切れていた。
正確には——途切れていたのは、それより少し前だった。
医師は「逆行性健忘」と言った。事故の前後、数週間から数ヶ月分の記憶が失われることがある。多くの場合、時間とともに回復する。焦る必要はない。
颯はうなずいた。焦る必要はない、と繰り返した。
だが、病室に戻って窓の外を眺めながら、颯はひとつの奇妙な感覚に気づいた。何かが消えている。物の名前ではない。場所でもない。人の顔でもない——少なくとも、思い出せる人間の顔は全部そろっていた。父も、母も、親友の大輔も。
では何が消えたのか。
颯には、それがわからなかった。ただ、胸の奥のどこかに、ぽっかりとした穴があった。形のない、名前のない喪失。まるで大切な写真を一枚だけなくしたような——でも、その写真が何を映していたのかも、もう思い出せないような、そういう感覚だった。
退院したのは四月の頭だった。
入学式には間に合った。高校三年生の春。受験の年。クラスは去年と同じ三年二組で、席も窓際の後ろから二番目で、大輔はすぐ前の席だった。何も変わっていないように見えた。
「大丈夫か、颯」と大輔は振り返って言った。心配そうな目をしていた。
「問題ない」と颯は答えた。「少し頭が重いだけ」
「無理するなよ」
颯はうなずいた。窓の外を見た。桜が満開だった。風が吹くたびに花びらが散って、校庭を白く染めた。
きれいだ、と思った。
そして次の瞬間、理由のわからない寂しさが胸を刺した。
なぜだろう、と颯は思った。桜を見て、こんなに寂しくなるのは。
答えは出なかった。授業が始まり、先生が出席を取り、春の一日は静かに流れていった。颯は窓の外の桜を時々見ながら、その寂しさの正体を探し続けた。
放課後、帰り道に桜並木を通った。花びらが風に舞っていた。
颯はそこで足を止めた。
なぜここで止まったのか、自分でもわからなかった。ただ、足がそう動いた。桜の木の下に立って、散る花びらを見上げた。
誰かと、ここに来たことがある気がした。
誰と?
颯は目を閉じた。何も見えなかった。霧のような白さの中に、輪郭だけがあった。小さな手のひら。笑い声の残響。桜の花びらが髪に落ちて——
誰の髪に?
目を開けると、桜並木に人の姿はなかった。ただ花びらだけが降り続けていた。
颯は歩き出した。胸の穴は、さっきより少しだけ大きくなっていた。