10. 第十章 忘れた名前
二週間が経った。
颯と透の間には、少しずつ会話が増えた。多くはない。授業の話、購買のパンが売り切れる話、窓の外の天気の話。それだけだった。それでも、颯は毎朝透が教室に入ってくるとき、無意識に顔を向けていた。
ある昼休み、大輔が颯の机に来て、透の席をちらりと見てから「隣の子と仲いいな」と言った。
「別に、普通だ」
「普通にしては、よく話してると思うけど。颯って基本あんまり自分から話しかけないじゃん」
颯は答えなかった。大輔の言うことは正しかった。颯は確かに、自分から話しかけることが少なかった。でも透に対しては——何かが違った。沈黙が自然だった。話すことも自然だった。
その日の放課後、透が図書室に向かうのを見て、颯は何となくついていった。透は窓際の席に座って、薄い文庫本を開いた。颯は向かいに座って、受験の参考書を開いた。二人は一時間、ほとんど話さなかった。
帰り際、透が本を閉じながら言った。
「あなたって、記憶が一部ないんですよね」
颯は少し驚いた。「どこで聞いた」
「誰かが話してるのを聞きました。失礼だったですか」
「いや」颯は首を振った。「事実だから。事故で、数ヶ月分が」
透は本を鞄にしまいながら、少し間を置いた。「その、消えた記憶の中に——大切な人が、いる気がしますか」
颯の手が止まった。
「なぜ、そう思う」
透は颯を見た。ガラスのような目で。でも今日は、その奥に何かがあった。ひびの入ったガラスのように、光が少し違う角度に折れていた。
「なんとなく」と透は言った。「あなたの目が、時々、誰かを探してるみたいだから」
颯は答えられなかった。透は先に立ち上がり、「お先に」と言って図書室を出た。
颯は一人残って、窓の外を見た。夕暮れの空が橙色に染まっていた。
颯は鞄を持って立ち上がった。廊下に出ると、透の姿はもうなかった。でも、透が座っていた窓際の席の机の上に、小さな折り紙の鶴がひとつ、残されていた。
颯はそれを手に取った。白い折り紙で折られた、小さな鶴。誰かが昔——自分に、同じものをくれた気がした。だが、誰なのかは、霧の向こうに消えたままだった。